こんにちは。夏真っ盛りですね。みなさん、夏バテなどしていませんか?
僕は空いてる時間を見つけては映画を観ています。なぜ手間暇かけて映画を観るのかと自分でも考えてみたんですけど、(もちろん好きなんですけどね。) こういう理由なのかなと思ったので書いてみます。
あたりまえなのですが、自分という人間は、自分の枠を超えることはありません。他人に理解してもらおうと思うことはあっても、必ずしもそうはならない。逆もまた真なりで、僕自身、他人の気持ちがわかるなんてことはありません。わかろうとは思っているものの、自分というバイアスもかかっているし、絶対に無理。
でも、人間の社会で生きている以上は、他人と否が応でも関わることになる。その時にはやはり他者への理解が必要になる。
では、どうやって?
僕はそれが最も手軽にできるもの、つまり、パッと他人の頭の中に入って世の中を眺めてみるという疑似体験できるものが、映画であったり、文学であったり、コミックであると考えています。
とりわけ映画は、他人の考えを知るだけでなくて、人の視点も得られるというところに特徴があります。ヒトはどんな視点でものを眺め、どんな考えを持つに至るのか。それがすぐわかるという点において非常に優れたメディアだと言えますよね。
ところで、言葉を選ぶ必要があるかもしれませんが、僕たちは本当の民主主義を知りません。社会が多くの労働者によってドライブしている限り、多くの労働者が向かうところ、見つめる先が必要であり、それは常に搾取側から暗示されるものです。
長崎の軍艦島に訪れた時、なぜ労働者がここに集まったのか不思議に思いました。ガイドさんからの説明では、「ここには当時の最新鋭の設備が備え付けられていた」そうです。給料も良かったのかもしれません。それでも僕は歩いて全てを見渡せてしまうこんな孤島で暮らしたいとは思いませんでした。
資本家側があまりにも強くなり、搾取がひどくなったり、支配と被支配の関係が顕著になったときに歯止めをかけるもの。それこそが資本主義社会における民主主義の大切な側面ではないのかというのが僕の考えなのですね。
であるなら、資本家は当然、そこを事前に食い止めます。これは、自分の会社の商品が悪いものだと自分で言って歩くことはないのと同様に、資本主義社会においては当然の帰結です。
ですから、労働者側はいつだってあたかも自分で考えたかのように、他人から暗示された同じ価値観で動きます。はみ出すのが怖いがゆえに、この価値観を広めて共有しあうのは、他ならぬ自分たちです。そして自ら進んで社会をドライブするための歯車になります。
歯車同士がコミュニケーションを取るなら、さほど問題はないのですが、そうではない次元でコミュニケーションが行われた時、もしくは、暗示された価値観以外を持つ人たちと出会った時、社会をドライブする所作しかしらない人たちはどうやって互いを理解すればいいのかわかりません。これは大変にやっかいな問題だと思います。僕はそういう状況がそれこそ急速に広がっているのが、まさしく今なのではないかと考えています。
来るべく未来は、明るく楽しい社会ではなさそうです。お互いを監視しあい、憎しみあい、分かり合えない者同士、互いにレッテルを貼る。ことによれば、惨劇も起こしかねない。そう、僕らはいつだってピアノ線を綱渡りで歩いているような社会で暮らしているんです。なぜ、こんなことになっているんでしょう。
語るべき言葉を持ち、相手を敬い、その言葉に耳を傾け、咀嚼する。そこに理解が生まれるのですから、やはり、そういった目を普段から磨いておくことが大切なのではないでしょうか。
映画はひとりよがりになりがちな自分にバランスをもたらしてくれる優れたメディアです。個人的には、できれば、その映画の主人公になるのではなく、ディレクターにならせてくれる映画の方が良いと思います。
ある考えを押し付けられたり、影響を受けたりということではなく、自分という枠の中に、他者を取り込む。そして他人の考え方を認めてみる。
自分の見識が間違っているなんて! と思う人は、ぜひ、映画を観に行ってみてください。観たくない方向の方がより役にたちます。
そんな話でした。