職責の軽さって話。

僕はプロミュージシャンじゃないので、やっぱりプロは違うなぁと思ったりします。手に職系の仕事の人たちは時間をかけて自分の腕を磨いていかなければならないし、その腕を生かす方法も考えないといけない。GOLZで言えば、トシはそういうスタンスで音楽をやっているので、身近にそういう人がいると余計にプロであることの重みを感じたりします。仕事という枠で捉えれば、職人さんでない人も当然沢山いるわけですが、そうは言ってもお客さん相手だったりすれば、商品の売り上げを左右するようなことだってあるし、やっぱり似たような境遇の中で、技術を磨いたり、うまく売り込んだりしていかなければならないことの方が多いでしょう。

ところが世の中には様々な仕事がありまして。あまりそういう風なことを感じないである程度のところまで来れちゃう人たちもいます。僕はそういう仕事にそもそも興味がないので、別にどうでも良いのですが、時々、そういう人たちが、『どうでも良くない場面』に出てくることがあるんです。

たとえば、人の人生を左右しちゃったり。たとえば、社会のあり方を変えてしまったり。

出世というものは、職人さんで言うなら、腕と売り込み方(営業)でしょう。ところが、こういった人たちは、ゴマをすったり、ご機嫌を伺ったりしていれば、意外となんとかなっちゃったりするわけですね。世渡り上手というんでしょうか。

もちろん、それが悪いとは申しません。全くそうは思わない。

ただですね、そういった人たちの中に結構な割合で『ヒエラルキーこそ全て』みたいな人が混ざっておりまして、「そういったあり方こそが正しいのだ」と急に前に出てきちゃったりすると、大変、厄介な訳です。とりわけ、そういう社会に属していない人たちからすれば、迷惑千万な話なのです。

ここ最近の出来事でも(小さなやつも、おおきなやつも全部ひっくるめて)、そういったバックボーンをもって重職につかれた方たちが、「俺は偉く、だからこそ正しいのだ!」ということを、うっかり行動やら発言に反映させてしまうというケースが多々あり、こりゃ困ったものだなぁと思っています。「そういう」とは、論理的な整合性に欠け、共感できる要素もほとんどない行動や言動のことです。僕はそういうもの全てを「軽い」と言ってます。ただひたすら軽い。
責任はどこの誰が取るの?って大原則すら考えていないでうっかり発言してしまう。うっかり実行しちゃう。
「自分は苦難を乗り越えて(単なるイヤな人へのゴマすりみたいなものでしかありません)やっとこの立場になった。だから、「エライ」のだ!」という感情が後ろ盾になり、とんでもないことを軽々しく口にしてしまう。こういうときに職責の重さを感じている人は、そんな不用意な発言はしないんですよ。だって、積み上げてきたものが崩れてしまうから。

もっと言うと、職責に関わる内容の問題と気づきもせず、うっかりSNSに投稿してしまったりする。一国の首相が国会で「新聞に書いてあります」とか言ってしまう。僕は言いたい。あなたが考えるあなたの偉大さは残念ながら、あなただけが感じているものですよ。と。

これは推測でしかありませんが、そういう人たちに論理的整合性を問えば、父権主義(パターナリズム)をかざしてきたりするでしょう。ですが、そういったことがそもそも上から目線で不愉快ですってことを考えていない。
友人の江口さんと前に話したことがありますが、「ホームレスに家を与え、仕事を与え」という態度は必ずしも正義ではないということなんです。なぜなら、当事者を置き去りにしてるから。つまり、みているポイントが根本的にずれている。それもヒエラルキーのなせる業なのです。そういった仕事の仕方からも「とりあえずやったから良いでしょ」的なあり方を感じてしまうことがある。それも軽さの一種。本質に踏み込んでいないんです。そもそも。

職責とは、非常に重い物です。幾度となく反省を繰り返しながら、磨き上げて、培われていくものです。SNSの「いいね」ボタンで支持されるような、そんな軽々しいものではありません。

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