ゆく年くる年

色々と文句はあっても日本は良い国だと思う。

なんとなく平和だし。なんとなく食える。住むとこもあるし、好きなこともやれる。

でもそれは、戦争に負けて、ボロボロになって、たくさんの人が死んだからなのかもしれないと思うことがある。


先の日本の戦争を改めてみてみると、「すすんで犠牲になる」というような風潮があったことを知る。もちろん。僕は戦争責任という話をするなら、開戦を決めた人々や当時の閣僚、命令を下す立場にあった軍人たち、戦争を煽ったメディア、そういったものに免責など一切ないと思うけれど、そのような連中を支えたり、その言葉を鵜呑みにしたりして、我が子に「国のために立派に死んでこい」と言った親たちが存在したことを看過できないでいる。

そのひとたちは「騙された」のか。あるいは「洗脳された」のか。否、僕はそうは思わない。その人たちは「無知であった」のだ。軍事のことはもちろん、他国との関係も、国内のエネルギー事情も、アメリカの強さも、何も知らなかった。それなのに、権力者たちの話を理解したようなフリをした。理解したつもりになった。その連中についていく以外に方法がないとされていた身分のひとたちがいたのも確かだろう。しかし、どう理由をつけても、そのような形で多くの人が戦争に加担した事実は変わらない。


多くの犠牲者を払った理由を、新しい憲法や新しい社会の仕組みで封印したから、僕らははこの平和を享受しているのだとすること。それ自体に異論はないだろう。しかし、その仕組みの上部にあるものが戦中とそれほど変わらず、仕組みそのものを変えてしまおうとするかもしれないと想像するならば、それらを監視し、時には糾弾していかなければならないと考えるのはそれほど不自然ではないはずだ。少なくとも僕なら戦争を引き起こし多くの犠牲者を出した張本人を再び国の指導者に据えることは絶対にない。その唯一の手段こそが民主主義なのだと信じている。


自分が不利益を被らないために、日本国憲法に謳われる民主主義を守らなければならない。しかし、同時に、被害者的な視点だけではなく、加害者にならないためにも絶対に無知であってはならないのだ。わかっているフリで逃げ切ることはできない。再び、あの時代と同じような悲劇を繰り返すことだってありうるのだから。


僕は僕が「できること」しかできない。でも、その「できること」を増やしたり、広げたりすることはできる。

民主主義の担い手として、もっと多くのことを学ばなければと思う。でなければ、自分の大切にしている人を悲しませてしまうかもしれないから。

2017年も暮れていきます。2018年はさらなる学びを深めていきたい。議論もしましょう。ここに日本国憲法の前文の一部を引用します。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

日本が抱えている問題を整理したり、世界の情勢を聞いたり。まだフワフワしてるけどみなさんにも早く案内できるようにがんばります。


今年一年、多くの方々に励まされ、楽しく過ごすことができました。沢山の出会いに感謝です。本当にお世話になりました。

来年もこんな僕ですがくれぐれもよろしくお願いいたします。

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