自分の眼の前で起こったことを、安易に一般化すべきではないことは承知の上で、書く。読む人もその点は理解してほしい。
今週の月曜日は成人の日だった。各地で成人式が行われ、僕が指導している選手の何人か、バイトに来てくれているコーチも成人式だった。新成人おめでとう。心からお祝い申し上げます。
僕が感じたことは、僕らの時代の成人式とは大きく様変わりしたということ。それについて少し触れたい。
まず、成人式は、どうやら参加者が楽しみにしているイベントになったようだということ。僕らの時代(もう30年近く前になるが)も、晴れ着を着たい女の子はもちろん大勢いたのだけれど、「成人式なんか行きたくねぇよ」みたいな風潮が少なからずあった気がする。僕もその一人だった。そんなわけで、成人式にはとりあえず行ったのだけど、式典には出ないし、長髪にライダーズという出で立ち。スタイルが違うだけでヤンキーとさほど違いはなかった。
ところが今の子たちに聞いてみると、「すごく楽しかった!!」と言うではないか。突っ込んで聞いてみると『仲間意識』みたいなものも全然違う。「みんなに会えて嬉しかった!」が最初の一言なのだ。全く驚いた。
考えてみれば、今を生きる若者たちは、僕らの世代とは人との繋がり方が明らかに違う。親との関係性も全く違うと思う。お父さんべったりの女の子、お母さんとご飯に行ったり、買い物に行ったりする男の子。どうやら「恥ずかしい」と思わないようだ。これは一体どうしたことだ。
僕の時代であれば、親とどこかに行くなんてカッコ悪いし、親父は分からず屋でお袋はガミガミ小言ばかり。一部の大人を除けば、全員が敵だと思っていたくらいだった。「お袋が買って着た服なんてダセーから着てらんねぇんだよ!」とか思っていた俺は一体なんだったんだ?
俺の時代とは全く違う今の子どもたち。比較しながらよく考えてみれば、こんなに幸せなことはないような気がする。学校に行けば仲間がいて、親とも仲が良い。ならば、時代は良い方に流れているのではないか。
けれど、ひねくれ者の僕からすると、ちょっと綺麗すぎると思ってしまう。少なくとも、仲間に入れなかった子はどんな風に感じるんだろう、成人式に参加するんだろうかとか、仲の良い家庭、あるいは暮らしに困らない家庭ばかりではあるまい。そんな家の子はどうしているんだろうか、晴れ着が用意できない家庭の子は、どうしているんだろうかとか。
成人するということは、社会に対し責任を持つということだと昔は教えられた。当然、その時は責任なんてなんだかさっぱりわからなかったけど、今なら少しわかる気がする。できれば、その楽しい思いや幸せな気分を、直接ではなくても良いから、社会の中で置き去りにされている人たちに少しだけ分けてあげてほしい。社会の仕組みやあり方が、困っている人たちにとってより良いものであるように一緒に考えてほしい。きっと君たちならできる。僕らも君たちの手本になるように、「あんな大人になりたい」と思ってもらえるようにしようと思う。