自分の行動を考える上で、基軸となるのは欲求だ。
食事する、排泄する、寝る、といった一次的欲求(生理的欲求)は、他者との関係性を伴わないが、食事を作ることができない、トイレまで行けないとなってくると一次的欲求を満たすためにも、他者の手伝いを必要とする。つまり一次的欲求ですら他者の手を借りずに満たすことは難しい。
二次的欲求(心理的欲求)は、社会との関わりの中でこそ充足されるので、他者無くして語ることはできない。仲間、友だち、同志、あるいは競争相手、ライバル。色々な階層、場面で登場する人々を必要とする。
つまり、人間は「こうしたい」「こうなりたい」「こうありたい」と一人で考えたとしても、行動に移す段階においては、ほとんどの場合、他者の力、存在なしに実現することはできないということだ。
では、個人の目標を達成するために、どのように他者から協力を得れば良いのか。どのような集団を形成すれば良いのか。
食事を作れなくとも、お金を払えば食事ができる。服が縫えなくとも買えば着るものがある。お金は欲求を充足する上で、最も容易な方法と言えるだろう。ところが、友だちも仲間もライバルもお金で買うことはできない。一方で、会社など利害関係がはっきりしている場合の協力関係や、利害関係がなく同じ目的を持った集団であれば、お金を使わずとも関係を築くことが可能だ。
ここにチームという考えが生まれる。
チームには集団的目標が必要だ。リーダーたる人物は、この集団的目標を常に明確化し集団を形成しなくてはならない。しかしここで重大な問題がある。
強制的であるか、自主的であるかだ。
強制力を行使して集団をまとめ上げ目標を達成しようとする態度は、もはや前近代的であることは言わずもがなだ。(こういった手法に執着する人たちが一定数いることは理解しているが、手法そのものに理解を示すことは到底できない。なぜなら、歴史を振り返れば、どんなスパンにせよこの方法は失敗し犠牲者を生み出しているからだ。)
また、カルトに代表されるように、強制力と自主性を混沌とさせる形の集団があるが、それは人間が持つ「信じる力」の悪用でしかない。本来、目標とは「そこに向かって進むことを指す」のであり、「100%必ず達成されるもの」のことを指すのではない。
リーダーが成功をちらつかせ、その方法を知っているとうそぶき、自らを信じさせ集団を形成するといった方法を用いている場合は、カルトもしくは詐欺集団である。この点は重要なので指摘しておく。
自主性と共通目標だけで集団を形成する。そこには試行錯誤があるだろう。
リーダーは自ら行動しなければならない。そして場面によっては慇懃に協力を願い出る態度も必要だ。
互いに思いやり、差別なく、仲間同士で背中を押してやれるかどうか。集団の一員として自分の責任を果たせるかどうか。結果に対して寛容であるかどうか。外部に対して閉鎖的になっていないかどうか。
新しい時代にフィットした集団のあり方、そしてリーダーのあり方。常に考える必要があるのではないかと思う。