正しさとか、正しい言葉とか。

自分の正しさを証明しなければならない場面ってどのくらいあるのだろう。僕は自分の言葉や会話の中にそれを認めることはほとんど無いのだが、人によってはそればかりの人もいる。あえて言うなら「自分以外の他人は間違っている」と考えている人は、正しさを常に意識して日々過ごしているのかもしれない。では、正しさってどう証明されるのか。

僕は物心ついた時から、非論理的な言葉やルールを許さないという姿勢を貫いている。なぜだかはわからない。学生時代は長髪だった時期が長いのだが、例えばバイト先で「髪を切れ」と言われると理由がはっきりしないのにそんなことを言われるのはおかしいと考えるので「ではやめます」と即答していたが、今でも間違っていないと思う。僕はそういう「トラブル」は〇〇的(日本、学生、社会人、男子、女子、属性を表す言葉ならなんでも当てはまります)正しさという裏付けのはっきりしない非論理的な言葉の押し付けから来ていると考えている。江戸時代は丁髷だったのに日本的とはこはいかに。となぜみんなは考えないのだろうか、不思議でしょうがない。ひとつひとつ検証してこなかったこと、みんながそうなんだからそうなんだで片づけられてきたこと。そういうものが原因なのではないだろうか。

でも、こういう態度は、不遜とか、生意気とかということで片づけられてしまうことがほとんどだ。そりゃそうだろう。そもそも論理的に説明できる人などいないのだから。彼らは大声で「ルールはルールだ」と身も蓋もないことを言うだけだ。でも、これは支配的な関係性の中だけで成立するので、立場が変わると全く通用しなくなる。だからこそ、あえて考えてほしいのは、相手を糾弾できるときはそうでも、それが通用しない状況で自分の正しさを証明するとなったら果たしてどうするのかということなんだ。

話はそれるが、日本語ではなんとなくやり過ごしてしまう文法も、あえて英語で学ぶととても論理的だなと思ったりするものだ。母国語ではない英語を体系的に学ぶために、色々な用語が用意されている。人によってはかえって覚えにくいということもあるかもしれないが、整理するためには良いところも大いにあると僕は思う。自分と他人、能動と受動、など様々な角度や方向でコミュニケーションは成立しているんだということを理解しやすい。逆に言えば、こういうことを考えずに喋れてしまう日本人にとっての日本語は、論理性も低く、議論するのが難しいとも言えないか。自分の正しさを自分の方向から証明してしまおうと相手の意見に耳を傾けず、自説だけをベラベラと捲し立てている人たちが散見されるのは、あるいはそういうことではないだろうか。

言葉や会話を論理的に整理できれば、混乱やミスコミュニケーションも少なくなり、人間関係も整理されると常々考えている僕としては、ワーワーと自分の正義だけを喚き立てる、あるいは、それを第三者としてそのまま広めたり、非論理性を明らかにしないまま、次の議論に移っていったりすることは、全くもってけしからんと言わざるを得ない。自分の正しさを証明するのであれば、自説に誤りがないか点検し、相手の意見や第三者の意見に耳を傾けた上で、客観性と論理性を持って証明すべきなのだ。スタートラインが「自分は正義だから間違えるわけがない」というのでは、証明などできっこない。そしてそういう類の人間は無意識に他人を傷つける、あるいは不愉快な思いをさせることが多いと僕はそう認識している。

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