おめでとう

きっちり仕事しました。ホッ。宮城、行きます。

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関東高校選手権


関東高校水泳選手権で栃木県小山市に来ています。インターハイ出場をかけた熱戦が繰り広げられます。

気迫をもって、信念を貫き、冷静にゲームする。きっちり仕事します。

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民主主義という落とし穴

今日、こんなことを書くのは不謹慎なのかもしれないのだが、民主主義ってなんなのだろうという問いをあえて立ててみたい。

「民主主義は完璧なシステムとしてこれまで機能してきたのに、今日、ある悪者の手によって葬り去られてしまった」みたいな話になっている気がするのだが、本当にそうだろうか。

お金がまわり、そこそこの暮らしが保証され、戦争に直接的に巻き込まれていなかった状態を「民主主義のおかげ」というのはちょっと短絡的すぎると思う。

議会は、利害関係の調整の機構として置かれ、主に支持基盤を持つ政党によって運営されている。数の原理により、自分たちにとって最も都合の良い話を出し、議論はするが、反論に耳を貸す余地は無い。これが実像だろう。とすれば、やはり甘んじて議会の決定を飲むしかない。(もちろんその成立プロセスが正しい場合のみだが)

誰にとって都合が良いのか。本来ならば大多数となるはずだが、人々にとって実際の「大多数」なんて実態はよくわからず、なんとなく「テレビや新聞でもそう言ってるから、そうなんじゃないかなぁ」が多くの意見なのだと思う。そして何となく投票し、もしくは、特に自分の生活とは関係ない話だから、興味がないからと投票を棄権する。

これが民主主義の実態なのだとしたら、実際にこれまである種の成果をあげて来たことすら不思議でしかなく、とてもではないが、民主主義が機能して来たとは言い難い。

「共謀罪に反対する」という旗印が有権者の最大公約数になりうるか、ただでさえ、そのような状態であるのに。僕は甚だ疑問だ。なぜならこれは民主主義が機能しているという前提での議論でしかないからだ。

機能していないという前提で行けば、イギリスの労働党のようなマニュフェストになると思う。有権者に直接的に訴えうる、最大公約数的な何か。先にそこに耳を傾けるべきなのだと思う。共謀罪を廃案にするという話もその先にしかない。

国民主権の戦後70年は人々にとって長い道のりであったかもしれないが、民主主義にとってはごくわずかな時間でしかない。後世にもこの最も理想的なシステムを遺すためには、やはり僕らの不断の努力が求められているのだと思う。

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昆虫のレストラン


窓を開けると庭から芳しい香りがいっぱいに入ってくる。

植樹してから4〜5年経ったネズミモチが満開だ。やっと見事な花をつけてくれた。

そもそもネズミモチは庭木というより公園なんかに植えてある木なのだが、昆虫の集まる花として名高いため、「ならば!」と植えた次第。

写真のハナムグリを筆頭に、ミツバチ、アブ、チョウ、沢山の種類の昆虫たちがその蜜を求めて集まってきていて、眺めているだけで実に楽しい。


昨日のGOLZ LIVE に足を運んでくださった皆さん、どうもありがとうございました。

まさかの「豪流頭」ピーナッツの差し入れ、サンキューです!次もがんばります!

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世界の多様性はなぜ保たれるのか

今、考えていることに非常に近い一文があったので、紹介します。以下、引用
それを説明するためには、どうしても一つの仮説が必要です。実は社会の経済や政治のあり方までも決定するような影響力を持つ集団の価値観というものは弱い、希薄な価値観なのです。しかし、その希薄な価値観の存在が非常に大きなパワーを生んでいる。希薄な価値観はなぜ希薄かというとその地域で育った人が別の地域へ行って長く暮らしたり、あるいは次の世代になれば、新しく移った別の地域や国の価値観を採用するようになるからです。そのように希薄な、空気のような価値観が、職場や自分の付き合う仲間の間にある。それが実は非常に強い、一つの場所(テリトリー)を形成しているのです。個人はそれを長年の間に自分のものにしていきます。
~中略~
社会文化は集団を特徴づけることはできますが、個人をその社会文化で決定することはあり得ないからです。
~中略~
そういう意味で私の仮説は、人類は本質的に異なる民族や文化があるのではなく、多様性は事実として存在するが、それでも人間は普遍だという考え方に馴染みやすいのです。
(問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論 (文春新書) エマニュエル・トッド著 堀茂樹訳 p.245~246 より抜粋)
僕が今深く考えているのは、『(ある種希薄な)物語の共有による地域を限定する境界線と人間の行動や思考の関係性』です。
そこでいう「物語の共有」こそ、我々が考えるべき課題だったのではないかと、共謀罪が衆院を通過してしまったいま、痛感しています。
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職責の軽さって話。

僕はプロミュージシャンじゃないので、やっぱりプロは違うなぁと思ったりします。手に職系の仕事の人たちは時間をかけて自分の腕を磨いていかなければならないし、その腕を生かす方法も考えないといけない。GOLZで言えば、トシはそういうスタンスで音楽をやっているので、身近にそういう人がいると余計にプロであることの重みを感じたりします。仕事という枠で捉えれば、職人さんでない人も当然沢山いるわけですが、そうは言ってもお客さん相手だったりすれば、商品の売り上げを左右するようなことだってあるし、やっぱり似たような境遇の中で、技術を磨いたり、うまく売り込んだりしていかなければならないことの方が多いでしょう。

ところが世の中には様々な仕事がありまして。あまりそういう風なことを感じないである程度のところまで来れちゃう人たちもいます。僕はそういう仕事にそもそも興味がないので、別にどうでも良いのですが、時々、そういう人たちが、『どうでも良くない場面』に出てくることがあるんです。

たとえば、人の人生を左右しちゃったり。たとえば、社会のあり方を変えてしまったり。

出世というものは、職人さんで言うなら、腕と売り込み方(営業)でしょう。ところが、こういった人たちは、ゴマをすったり、ご機嫌を伺ったりしていれば、意外となんとかなっちゃったりするわけですね。世渡り上手というんでしょうか。

もちろん、それが悪いとは申しません。全くそうは思わない。

ただですね、そういった人たちの中に結構な割合で『ヒエラルキーこそ全て』みたいな人が混ざっておりまして、「そういったあり方こそが正しいのだ」と急に前に出てきちゃったりすると、大変、厄介な訳です。とりわけ、そういう社会に属していない人たちからすれば、迷惑千万な話なのです。

ここ最近の出来事でも(小さなやつも、おおきなやつも全部ひっくるめて)、そういったバックボーンをもって重職につかれた方たちが、「俺は偉く、だからこそ正しいのだ!」ということを、うっかり行動やら発言に反映させてしまうというケースが多々あり、こりゃ困ったものだなぁと思っています。「そういう」とは、論理的な整合性に欠け、共感できる要素もほとんどない行動や言動のことです。僕はそういうもの全てを「軽い」と言ってます。ただひたすら軽い。
責任はどこの誰が取るの?って大原則すら考えていないでうっかり発言してしまう。うっかり実行しちゃう。
「自分は苦難を乗り越えて(単なるイヤな人へのゴマすりみたいなものでしかありません)やっとこの立場になった。だから、「エライ」のだ!」という感情が後ろ盾になり、とんでもないことを軽々しく口にしてしまう。こういうときに職責の重さを感じている人は、そんな不用意な発言はしないんですよ。だって、積み上げてきたものが崩れてしまうから。

もっと言うと、職責に関わる内容の問題と気づきもせず、うっかりSNSに投稿してしまったりする。一国の首相が国会で「新聞に書いてあります」とか言ってしまう。僕は言いたい。あなたが考えるあなたの偉大さは残念ながら、あなただけが感じているものですよ。と。

これは推測でしかありませんが、そういう人たちに論理的整合性を問えば、父権主義(パターナリズム)をかざしてきたりするでしょう。ですが、そういったことがそもそも上から目線で不愉快ですってことを考えていない。
友人の江口さんと前に話したことがありますが、「ホームレスに家を与え、仕事を与え」という態度は必ずしも正義ではないということなんです。なぜなら、当事者を置き去りにしてるから。つまり、みているポイントが根本的にずれている。それもヒエラルキーのなせる業なのです。そういった仕事の仕方からも「とりあえずやったから良いでしょ」的なあり方を感じてしまうことがある。それも軽さの一種。本質に踏み込んでいないんです。そもそも。

職責とは、非常に重い物です。幾度となく反省を繰り返しながら、磨き上げて、培われていくものです。SNSの「いいね」ボタンで支持されるような、そんな軽々しいものではありません。

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GWが終わり…


昨日の白浜。楽しい時間をありがとうございました。

色々、学びの多い旅だった…。

指導者の仕事をしていると自主性という言葉を良く聞きます。

自主性ってのは、自ら進んでことにあたる姿勢のことだと思うんですが、「自主性を持て!」と上からオーダーしてしまうのはおかしなことですよね。それはその時点で自主性ではないからです。僕たちは時折矛盾するメッセージを無意識で発していることがあります。受ける側が、「おかしなこと言ってるな」と思ってくれればまだマシです。「おかしなことを言ってるけど、指摘すると怒られるからやめておこう」もまだマシ。極め付けは、「この人の言うことに間違いはない。だから言うことを聞こう」と盲信すること。これはもう救いようがありません。自主性ゼロです。

自主性は「?」から生まれると僕は考えます。「なぜ?」「どのようにすれば?」「これはなに?」こういう質問が出るということは、何かしらの結果を期待していたり、目標や目的を持っているからです。

「?」を生むためには、よく観察する。じっくりと考える。反芻する。こういった姿勢が大切です。

指導者はこういう姿勢に至るまで、上手にヒントを提供しながら、あまり多くを語らないこと。こういう考え方が求められているのではないでしょうか。


それにしてもラスポテトは美味い。

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