This is my history April 1970 – Mar 1974

なんだかこの暑さのせいか、急に自分史をまとめてみたくなった。写真、親・親戚から聞いた話、テレビの再放送、記憶は様々な要因で少しずつ変化するだろうから、完璧な記憶など土台無理な話。それを承知でお付き合い願えればと思う。思い出したことがあれば加筆もしちゃうつもりだ。


誕生

僕は1970年(昭和45年)4月に生まれた。世の中は70年安保の真っ只中。祖父も、父も、叔父も警官だった我が家は忙しかったに違いない。とはいえ、1970年はまだ時代の速度としては今と比べればのろかったはずだ。

僕が生まれた病院は都内の父の仕事場からほど近かったそうだが、生後1年ほどで祖父が居を構える都下、昭島に移ってきたと聞いている。ちなみに僕は戸籍上次男で、生後間も無く息を引き取った「勉」という兄がいる。兄の存在は僕にも確実に影響を及ぼしていて、「健一」と名付けられたのは、健康に育って欲しいという願いからだ。

当初は警察寮に住んでいたようだが、祖父が家を建てたのでそちらに同居することになる。それが昭和46年のことなので、記憶がここからスタートするのも無理はない。当時は狭い一軒家に父の妹弟3人も同居していたらしいが、母の愚痴で聞かされた以外は僕の記憶にない。


その頃の毎日

その時から結婚して家を出るまで暮らしていた実家は、少しだけ閑静で比較的新しい家が立ち並ぶ通り。小学生のお兄さんたちはいたが、僕と同世代の子はほとんど住んでいなかった。だから、この頃の僕の記憶といえば、もっぱらテレビと図鑑。母や祖父と散歩して歩いた近所の街並み程度だ。

テレビ番組は特撮モノが隆盛を誇っていた時代で、帰ってきたウルトラマン、仮面ライダーを筆頭に、マイナーなものまで数えれば、10や20ではきかないと思う。この辺の話は確か以前ブログに書いたので省略する。

関連するオモチャもたくさん持っていた。お気に入りのオモチャはMATT のアタッシュケース、実際にまたがれるD51も好きだった。家の周りにはまだ未舗装の道路が多く砕石が敷いてあり、その砕石を汽車の石炭に見立てて上からザラザラとかけたりしてた記憶がある。

散歩コースの思い出は、通りの端にあったイサミ輪業という自転車屋さん。おじさんが自転車を修理するのをながめたり、池の鯉をながめたり。お店の看板には「ツノダの自転車」という文字とタマゴンのイラストがあった。おじさんは優しくていつもニコニコしていたけれど、ずっと後になって母から聞かされたのは、奥さんが横田基地に飛んでくる飛行機の騒音が原因で自殺しちゃったんだとか、自分で鼓膜を破いちゃったんだとかいう話。だからおじさんは「横田基地の騒音訴訟」みたいなのに関わっていたらしい。その時は思ってもみなかったけれど。

そういえば、今は別の場所に移転してしまったんだけれど、僕の家のすぐそばにイトーヨーカドーがあった。ヨーカドーができる前は何かの工場で、窓がいつも開いていてそこから職工さんが作業をしていたのを見ていた記憶がかすかに残っている。イトーヨカドーは、駅向こうの「エスパ」ができるまで僕の遊び場だった。

当時はまだファミリーレストランやマクドナルドは昭島には無く、ご馳走といえば、デパートの食堂だった。立川の高島屋の屋上に通じる最上階に食堂があってお子様ランチを食べたものだ。お子様ランチはあくまでもオマケがメインみたいなところがあって、ウルトラマンの怪獣(まだ消しゴムタイプじゃなくて、プラスチックの硬いタイプ)なんかがついてたと思う。それと、ツマヨウジの国旗、ボンタンアメを大事に持って帰ったものだった。屋上の出口近くにペットショップもあって、ミドリガメを眺めていたのも覚えている。ヨーカドーのファミールにもお子様ランチはあったが断然高島屋の方が上だった。

イトーヨーカドーの出現はカルチャーショックだった。一番驚いたのは自動販売機。機械の上の部分ではいつも噴水みたいにオレンジジュースがピューピュー回っていて、みるからに美味しそうだった。多分、自動販売機も行き過ぎた広がりを見せるのはこの辺からで、僕もなぜだが、自動販売機の方が美味しいのではないかと思っていたのだった。ちなみに缶ジュースはスチールでそれほどメジャーではなく圧倒的に瓶のシェアの方が多かったと思う。それは幼稚園の項で話そうか。

昭和40年代は多分「鳥を飼う」のがとても流行っていて、(うちもやがてそのストリームに思いっきりはまっていくのだが)散歩コースに鳥がらみの場所は多かった。「遠藤さん」という都営住宅の中にある駄菓子屋の並びに色んな鳥を売っているお店があり、よく見に行った。それから、田村ふとん店の軒先にいた九官鳥。「オハヨー」とか喋る子で大好きだった。

「笑い袋」という袋を握ると「あーはっはっは!あーはっはっは!」と甲高い声を出すくだらないオモチャがあった。これに驚いて泣く僕を面白がって母は良く僕をおどした。これは小平の母方の祖父母の家のおじさんの部屋と近所の家にあり、僕を恐怖に陥れたが、正直だんだん慣れてきて最後は母を喜ばすために泣いていたんだっけ。

その小平の祖父母の家に行く途中で母が運転する黄色のホンダライフが事故にあったのもその頃のことだと思う。五日市街道の桜上水あたり。僕は後部座席に座りブロックで遊んでいた。確か廃車になるほどひどい車同士の衝突事故で、気がついたら病院だったが、親指を少し切ったぐらいの軽傷で済んだ。ただ困ったのは、いつも親指を口に入れていたのに、包帯で巻かれてしまい、それができなくなってしまったこと。仕方がなく、反対の指に乗り換えたら、味がイマイチで参ったのを覚えている。

子どもらしい思い出といえば、キリンの刺繍のタオルケット。いつも持ち歩き匂いをかいでいた。最初の1枚は水色でボロボロになるまで使い古し、2代目は黄色だったが、最初の匂いが全然違う匂いでとてもガッカリした。


出会いと別れ

僕が2歳になる直前に誠という従兄弟が生まれた。昭和47年の4月。その辺りの記憶は流石にあまりないけれど、祖父からすると、僕が初孫、彼はその次。このことは、僕らののちの人生に大きな影響を及ぼすこととなる。

あと忘れてはならないのは曾祖母との別れ。小平の祖父母のうちにはおじさんとおばさん、それから曾祖母が住んでいた。曾祖母はすごく上品な人で振る舞いが優雅だった。僕が行くとタンスの上にから缶を下ろし、中からキャンディーをくれた。彼女が亡くなったことは記憶にない。でも彼女のお葬式は覚えている。初めてのお葬式だった。「おばあちゃんは煙になってお空に行くんだね」青空に白い煙が登っていった。


これが3歳までの大体の記憶。これが激変するのは幼稚園に入園してから。それはまた次回にしましょう。

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