ニュース中毒

大人であることに違和感を感じることがある。いよいよ就職という段になって、悪者にはなりたくないと、強く願った結果、子どもと接する仕事を選んだのも、自分が大人になりきれなかった証なのかもしれない。

 

「ひどいニュース中毒にかかっていたことがあるんだよ。」「次から次に、たえず新しいニュースを仕入れつづけていないと、なんとも不安でたまらない。」 「笑いごとじゃないよ、当人にとっちゃ深刻な話さ。ニュースを読んだり聞いたりするだけで、一日の大半がつぶれてしまうんだからな。」

「自分で自分の意志の弱さに腹を立てながら、それでも泣く泣くラジオやテレビから離れられない。もちろん、いくら漁りまわったところで、べつに事実に近付いたわけじゃないくらい百も承知していた。承知していながら、やめられないんだ。」

「ぼくに必要なのは、事実でも体験でもなく、きまり文句に要約されたニュースという形式だったのかもしれない。つまり完全なニュース中毒にかかっていたわけさ。」 (安部公房 「箱男」昭和57年)

 

ニュースという、操作された情報を鎧のように身にまとった大人は、そのソースがもっともらしいものなら、正しいかどうかの裏付けも必要としない。世論とい う、本来は、特定の人間たちの利益誘導でしかない情報の海を、ただ、泳いで渡るだけで、大人の責任を果たしていると、思い込んでいるのだ。

純粋な子どもの心の持ち主ならすぐわかる。考えてみよう、何が正しく、何が間違っているか。放射能は危ない。毒を飲めば死ぬ。戦争は自分たちのために行わ れるのではない。幸せは他人との生活レベルの比較ではない。お金はただの通貨で、それ自体に何も意味はない。陸、海、空は誰のものでもない。

ニュースを捨て、子どもに戻ったとき、ぼくらは、自由になる。何も怖いものはない。本当の答えは、きっとそこにある。 正しい心を持ち、みんなで、同じゴールを目指すことこそが、この難局を乗り切る鍵だ。惑わされるな。

 

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震災から1年1ヶ月が経過した。私の生活状況とは別に、頭の中は混乱を極め、整理する必要があったため、これまでの期間は、情報の収集と分析、整理に時間を充てた。

主な情報収集源はインターネットであった。ただ、インターネットに転がる情報は、主観によるものも多く、後付けで理論を構築している物も多いため、一つの指針として、裏付けが取れている物のみ「情報」として扱うこととした。そうすることで必然的に、発信源は絞れてくる。ほとんどの場合は、科学者である。

しかしながら、科学者も千差万別であり、「放射能」一つ取ってみても、安全から危険まで、全く異なる意見があり、素人目で判断するのは難しい。言葉のチューナーが合わなければ、完全に理解することのできない世界がそこにあるからだ。

では、どのように判断すべきか。

私は「徳」で判断することを重んじてきた。「徳」は、言葉だけでは表現できない、その人の「人格」の事を言うのであり、簡単に言うと「人間社会におけるその人の持つ姿勢」であると思う。

 

「徳」を得るためには、儒教の「五常」を知らなければならない。即ち、「仁・義・礼・智・信」である。

仁…人を思いやること。

義…利欲に囚われず、すべきことをすること。

礼…礼節を重んじること。

智…学問に励むこと。(ここで言う学問とは、学校の勉強ではない。知識を磨くことである。)

信…言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。

 

これを持っている人、考えて行動している人は、信ずるに値する「徳」のある人である。これが見えない人は、世の中に翻弄され生きてきた人であり、子どもの時分にしっかりと教育を受けて来なかった人である。つまり、徳が見えない=徳がないとも言える。私は幸いなことに、これが見える。その「ひととなり」を通じ、徳のある人物、無い人物を見分けることが出来る。よほど良い教育を自分は受けてきたのだなと、感謝の念に絶えない。

 

そして、この現代において、徳のある人物が存在することに感謝している。まだまだ日本は捨てたもんじゃない。

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